共通の使命感

感じることはできるのに、理解ができないことってある?


人間の謎にせまる箱庭アーティスト、理恵です。

正月明けで、仕事に行きたがらない人が急増しているらしい…。


Twitterのタイムライン上では「仕事に行きたくない。」というつぶやきが並んでいたようです。

とはいっても、ほとんどの人がそう思いつつも、いつも通りにちゃんとお勤めに出られているのだと思います…。

なぜ仕事に行きたくないと思うのかを考えてみると、職場の居心地が自分にとって苦痛であるというのが一つだと思います。


その原因のほとんどが、職場に嫌な人や苦手な人がいるからではないでしょうか。


この理由のばあいは、仕事自体が嫌いなわけではないこともあると思います。

もう一つの理由としては、今やりたいことと、職場に行くことが一致していないからだと思います。


休み明けの行きたくない理由はほぼこちらではないかと思います。


この理由のばあいは、今やっている仕事自体に価値観を見いだせないということがあると思います。


「行かなければならない。」という義務感のみで職場に向かうのは、虚しく辛いことです。

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あなたは好きなことをやって生きていますか?


こんな質問をされたら、どう答えますか?


この質問に答えるためには、自分の好きなこととはいったい何であるのかを知っていなければならないですよね。


私が思う、自分が好きなこととは…心から愛しいと思えることです。


それに対して、愛情を感じるということだと思います。


今、もし何に対しても愛情を感じないと思っているのだとしても、心配はいりません。


なぜなら、愛情は育めるからです。


辛抱強く向き合って、育てていくことで、愛情は何倍にも膨らませることができます。


極端なことを言えば、嫌いなことでも好きになることは可能だと思います。


でも、これには相当な時間が必要になってきます。


だから、自分がどんなことが好きなのかを知っておく方が、いろいろと効率が良いとは思います。


とはいっても、どんなに好きだと思っていた仕事でも、「しなければならない。」と思ってストレスになることはあります。


それを「義務感」というふうに捉えると、私は感情が重たくぶら下がっているようなイメージがあります。


そんな時は、「義務感」を「使命感」に置き換えてみます。


「使命感」に置き換えることで、「誰かがやらなければならないこと。」から「私にしかできないこと。」にイメージが切り替わります。


そうすることで、感情が背中を押してくれるエネルギー源になっていきます。

ただ、昨今の個人主義の考え方が広まっている日本においては、組織の中でも「使命感」を見出すことは、なかなか難しいことのようにも思えます。


守るものが自分だけという状態では、「会社に行きたくない。」という自分を尊重するのは当たり前で、「行かなければならない。」という「義務感」すら、もしかしたら湧きにくいかもしれません。


自分という枠の外がいきなり大きくなってしまうので、そんな大勢の中では、自分の使命などがはっきり見えてこないのだと思います。


比べるものがありすぎるからです。


自分という枠のすぐ外側にもう一つ小さめの枠を作れたら、自分の使命が見えやすくなるかもしれません。


たとえば、パートナーができると、そのパートナーに関わる人々が枠の中に入ることになります。


一人一人の顔がわかるくらいの枠の中では、自分の立場や役割が見えやすくなります。


更に、そのパートナーと家族になると、自分以外に守る者ができたことで、枠が強化されていきます。


枠が強化されると、「閉塞感」が生まれますが、同時に「安心感」も生まれます。


そして、その枠を守るという「使命感」も生まれます。


枠の中の人々は、一人一人が「使命感」を持って、自分の役割に就くことになります。


その役割を決めるときに、自分の好きなことをやって生きていけるかが重要になってきます。


ここで好きなことを選べなかった人が、枠があるがための「義務感」に苦しむことになってしまいます。

「義務感」にずっと苦しめられ続けると、自分の感情をどこに向けていいのかわからなくなります。

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「使命感」は自分に向かう感情です。


それに対して、「義務感」は他人に向かう感情ではないかと思います。


だから、「義務感」が「使命感」として受け入れられなければ、その苦しみは他人のせいということになります。

日ごろから自己責任感が強い人ほど、「義務感」からくる感情の苦しみを、自分の一番身近な人に向けてしまったりします。


言い換えると、愛情が強い人ほど、自分と他者を同一化してしまいやすいのだと思います。


「人のせいにしてはいけない。」という思いが、「全ては自分のせい。」ということになり、その自分という器の大きさを、他者と同一化して錯覚してしまうことによって、自分では「義務感」を受け入れられているつもりでも、それは相手の器にも入っていることになり、そのことが相互に共有できていなければ、結果的には無責任になってしまうということがあると思います。

「義務感」の怖いところは、このように自分の器の大きさが見えにくくなるということです。


「義務感」を「使命感」に置き換えることで、自分の器が今どれくらいであるかが見えやすくなります。

もし「義務感」に苦しめられてしまい、「○○のせい。」というふうに思ってしまった時は、こんな風に言い換えてみてもいいかもしれません。


「○○のおかげ。」


「○○のせいで仕事に行きたくない。」から「○○のおかげで仕事に行ける。」



もし、パートナーに「お前のせいで仕事が辞められない。」と言われても、「お前のおかげで仕事ができている。」と言われていると、自分の中では受け止めることにしています。


もし、パートナーに「お前が仕事を辞めさせてくれない。」と言われても、「私のために辞めないで。」と想い続けます。


相手が「義務感」に苦しめられて自分が見えなくなっているうちは、その「義務感」と共に向き合うことがパートナーとしての「使命感」だと思うからです。


そして、共に「義務感」を受け入れることができた時に、「共通の使命感」というものが生まれるのだと思います。

愛情とは、その「共通の使命感」によって育まれるものとも言えるかもしれません…。

しかし、自分で書いておきながらおかしな話ですが、このように愛情を理解しようとしても、やはり理解をすることは難しいです。

愛情とは何なのか…わからない人もいると思います。


私も、愛情とはどういうものなのか、全く理解ができない人間でした。


というよりも、今もまだ理解はできていません。


理解しようとしていたことが、そもそも間違いかもしれません。


愛情は、理解するものではないと気づいたときに、初めて感じることができるようになるのかもと思います。


人間の愛情…イミワカメ。

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