アモルとプシュケ
理恵でっす。
先日、鳴門市の大塚国際美術館へ行ってきました。
大きな美術館なので、中はとても広々としていました。
「大塚国際美術館」は、日本最大級の常設展示スペースを有する陶板名画美術館ということです。
古代壁画から、現代絵画まで、1000余点の作品が展示されています。
本当にどの作品も素晴らしく、一日で全てを観ることはできませんでしたが、何時間も立ちっぱなしだったにもかかわらず、とても癒されました。
入ってまず感じたのは、空間の使い方です。
私の日常ではありえない空間を、至る所で見つけられました。
空間一つ一つにも、作り手の意図を感じました。
まるで、自分が箱庭の中にいるような感覚になっていました。
こんなふうに空間を使えば、自分の好きなものたちを、居心地よく収めてあげられるのかもしれないと考えていました。
数ある作品の中で、一番気になったものがありました。
「アモルとプシュケ」という作品です。
絵の前に立った瞬間から、それまでと心の動きが変わったのを感じました。
なんて美しい絵だろう、と思いました。
とても純粋な愛が描かれていると、私の目には映りました。
裸の男女の絵なのですが、そこにはいやらしさや、穢れをいっさい感じませんでした。
この時は気づかなかったのですが、これはギリシャ神話をもとにした作品です。
ギリシャ神話はいくつか知っていますが、このお話は記憶にありませんでした。
帰ってからさっそく家にあるギリシャ神話を読み返してみました。
私の本には、「エロスとプシュケ」というタイトルで書かれてありました。
エロス(アモル)というのは、愛と美の女神のアプロディテの息子なのでした。
プシュケは人間で王女なのですが、あまりにも美しいので、アプロディテと間違えられてしまうほどでした。
そのことがアプロディテの気を悪くしてしまいます。
とうとう、何の罪もないプシュケをアプロディテは憎むようになり、この娘をばっしようと決心するのでした。
ある日、アプロディテは、息子のエロスにプシュケの心臓を金の矢で射ておやりと命じます、そして、プシュケがまずしい、みにくい物乞いの男でも好きになるようにといいました。
エロスは母のいいつけ通り、地上におりてプシュケのところにいくのですが、プシュケの姿を見た瞬間、あまりの美しさに、おもわず持っていた矢で自分の胸を傷つけてしまいます。
そして、エロスは自分がプシュケを好きになってしまうのです。
ここから、エロスとプシュケの切ない愛の物語が始まるのですが、興味のある方はぜひ読んでみてほしいと思います。
私は、いつごろからか、愛についてよく考えるようになりました。
親子の愛、師弟の愛、男女の愛、友情…愛にはいろいろな形があると思います。
ヨーロッパの概念では、エロス、フィリア、アガペーという3つの概念があり、エロスは日本語でいうところの恋に当たる、一時的に燃え上がる、激しく強い感情です。
主に、異性に対する性愛のことを指します。
それに対して、アガペーというのは、無条件的な真の愛を指します。
いわゆる、無償の愛がそれに当たると思います。
フィリアというのは、友情とか親愛という関係における愛のことです。
長い間私の中で、この3つの愛の形はすべてがごちゃまぜで、そのために愛というものについては言葉は知っていても、実感としてはありませんでした。
実感がないので、もちろん愛について考えるということもありませんでした。
最近、ようやく、少しずづ、実感してきたのかも…しれません。
そして、3つの愛の区別を意識するようになりました。
そうすることで、愛は一つだけではなく、様々な形があるのだから、人には愛の数だけいくつもの顔があるのではないかと考えるようになりました。
一途に一人の人を想うことは、とても美しく清らかなイメージがあります。
私は、それは間違いないと思います。
間違いなく、美しい。
でも、それはそれで一つの愛の形であって、その人を愛しているときの自分も、自分という全体の内の、一つの形に過ぎないのだと考えます。
人間は、どんなきっかけで、どんな自分が生まれるのか、それは誰にもわからないのだと思います。
アモルとプシュケが愛し合ったのも、もとはと言えば、アプロディテの怒りがあったからです。
そして、そこには金の矢のはたらきもありました。
人と人が結びつくためには、必ずそれ以外の人やものとの関わりがあるのです。
アモルとプシュケという絵画に出会って、自分の中の純粋な、澄みきった気持ちを感じさせてもらうことができた気がします。
また、きっと観に行こうと思います。
そして、いつか本物にも会いに行きたいです。