囚われ

理恵でっす。


子どもたちの新学期が始まって、気持ちも新たに!!

にひひ
あせる


…といいたいところですが、気持ち的には、「え?!もう新学期??!!」といったところです。


一番下の息子が今月から幼稚園に通園し始めました。


今まで日中もずっと一緒だったのに、なんだか少しさみしい気持ちがします。


このことを友人に話すと、「母がさみしがってどうするんじゃい!!子どもの成長を喜ばんかい!!!」
と、しかられてしまいました。(笑)


(この表現は誇張で、実際はもっと優しく言ってくれましたよ。(笑))


確かに…。


さみしいという気持ちは、そのものに対して愛着を抱いてしまっているということだと思います。


抱いてしまっている。…と私が表現した理由は、さみしさという感情に対する罪悪感なのだと思います。


「さみしいと思ってはいけない。」


自分の心の奥底にあるこの想いに、私は気づいています…。

私に関わる全ての物事は、私の所有するものではなく、預かりものである。


だから、いつでも手放せるように準備しておかなければならない。

私はこのように自分に言い聞かせて生きてきたつもりでした。


でも、いつも知らず知らずのうちに囚われてしまいます…。

箱庭に置くおもちゃ達も、これは誰のものでもないし、それは自分であって、しかし自分ではないのです。


そこに囚われてしまわないために、カウンセラーやセラピストが存在する意味があります。

自分の問題に対して、自分一人で向き合うことは、本質的には間違いありません。


しかし、実際一人きりでそれができるかというと、私は不可能だと感じます。


どうしたって、人間は一人では生きられないのだなぁ…と思っています…。

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『やることが残っている状態でダラダラするのは、本当に健康に悪い…。


でも、やる気力がない…。


ということは、どうすれば楽になるのかというと、諦めることだ。


「私にはできません。」って言う。


誰に?


自分に…。


「私にはできません。誰か助けてください。」


って言う。


そうすると、助けてくれる人が必ず現れる。


助けてくれる人を選んでいてはいけない。


でも、もしかしたら騙されるかもしれない。


誰が?


自分が…。


騙されたと後から思うのは、自分の気持ちが変わるから。


それをその人のせいにしてるだけ。


自分が変わって、その人がもう必要なくなったら、ありがとうって言ってさよならする。


むしろ始めから、「キミになら騙されてもいい。」って自分に言い聞かせておく。


執着してはいけない。


執着とは愛しすぎること。


愛することの裏側には、相手を憎む可能性を秘めている。


限りある自分のエネルギーは大切に使わなければならない。


そして、限りある他人のエネルギーもむやみに奪ってはならない。


自分の身の程を知らなければならない。


世間のルールを知らなければならない。』

人間は何かに囚われる、つまり依存しなければ生きていけない生物でもあります。


心が何かに囚われている状態は、異常なのか正常なのか?


この判断のポイントは、社会生活に支障が出るのか、出ないのか、という点です。


しかし、生活に支障が出てからでは元の正常な状態に戻すのに、たくさんの時間やエネルギーが必要になります。


今のところは生活に支障はないが、いつも同じ考えに囚われて、自分が辛いと感じるのであれば、カウンセリングやセラピーを受けてみるのもいいかもしれません。


ああだこうだと悩んで物事が進まず、流れが滞ってしまう前に動き出すことが肝心です。


さみしいって思ってもいい。


さみしいくらいがちょうどいい。

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叫び

さみしくても欲張っちゃだめよ~(笑)

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