泣いてもいいから動け!知ってると思っていても、まだまだ知らないことだらけ…。 一番自分のこと知らないのは自分自身だ…。

理恵でっす。

私は現在、箱庭セラピーを世に広めたいという思いで日々活動をしています。

それはなぜなのか?

箱庭を愛しているからです。

箱庭は、誰もが親しみやすく素晴らしいセラピーだと思っています。

でも、関係が深まれば深まるほど、多くの矛盾に気づき、悩むことも増えていきます、人との関係と一緒ですね…。
人に何かを伝えるということは、自分の中に確固たるものがあって、それを自分なりに表現することだと、私は認識しております。

でも、でも、でも、でも、、、、、、、、、、、でもぉ~~~~~~~~~~~~!!!!!!!

正直、自分の中の確固たるものってのを表現しようとすると、「とても曖昧で形のないフワフワしたもの。」という、とてもとても…〝確固〟なんてものじゃないと気づく…。

この、矛盾…。

無理くり説明するならば!…フワフワしたものを、その刹那、その瞬間で形にして、確固たるものにする、ということでしょうか?

それを形にして出しちゃった後は、あとはそれを受け取った人次第、そこに執着はしません。

でも、私が大切にしたいものって、そういうものなんだもん。

しょうがないのよね…。

「そういうもの」っていう表現自体がもう、そういうものだし…。

でも、こういう曖昧な表現って、人からどう見られるかを気にするが故に、曖昧になるのだと思います。

「人からどう見られようがいい、気にしない。」という方がカッコいいですけどね…でも、それではいけません…。

やはり、人の目は大切です。

人の目を気にしながらも、自分はこれでいいのだと思えることが大切です。

全ては自分で決めること。

どんな自分になりたいかということは、人にどう見られたいのかということです。

そんな時、自分を信じる力が一番必要になります。

人の目というのは、自分以外の人の目、自分と相手なら、その相手の目ということです。

相手を信頼するということは、自分を信じていなければできません。

自分を信じるためには、孤独と向き合う強さが必要です。

自分と向き合うということは、自分自身の成長を問うということでもあります。

この習慣がついていることはいざという時強いですよ!!!

しかも、生きてたらけっこうあります、「いざという時」。

私が思う「いざという時」の一つに、地雷を踏んでしまったというイメージが出てきます。

日常にも気づかないだけで、ストレスを抱えた兵士たちが撒いた地雷がそこらへんに転がってます。

きっと知らないうちに、みんな踏みまくってます…。

そして、人を傷つけているし、自分も傷ついている…。

地雷を踏んでしまったら…どうなるか知っています?

私の記憶が確かなら、地雷は踏んだ瞬間は爆発しないものだと、どこかで聞いたような気がします。

踏んでいる足を離した瞬間に爆発するらしいです。

つまり、地雷を踏んでしまったことに気づいたとき、人は身動きがとれなくなります。

逃げられなくなる。

地雷の狙いとは、そこなんですよ。

逃げたら死ぬ…これは怖いです…。

だから、むしろ感覚が鈍い方が地雷を踏んだことに気づかないでいられるので、楽かもしれません。

というか、絶対楽です…。死んだ方が楽。

知らん間に踏んで、知らん間に死んでて、自分が死んだことに気づかないということです…。

生きた屍になっている人、あなたの周りにいませんか?

「いる!いる!」と思い当たる人は、まだ生きる感覚を感じられる能力が残っている人です。

死んでない人。
森山直太朗さんというアーティストさんがいますね、その方の歌の歌詞でこんな言葉があります。

「生きてることが辛いなら、いっそ小さく死ねばいい。」

私、これ、なんとなくわかります…。

生きてることが辛い人というのは、ストレスを抱えた兵士たちが撒いた地雷が見えてしまう人のことだと思います。

つまり、感覚がいい人ほど生きてることが辛くなる…。

自分を信じるためには、孤独と向き合う強さが必要と、先ほど述べましたが、これは地雷から足を離せなくなった時にどうすればいいのかという現実と向き合うということです。
私が箱庭で伝えたいことの一つに、五感を解放して自己治癒力を高めましょうという思いがあります。

この、自己治癒力を高めるためには、どうしても地雷だらけの現実を受け入れるというプロセスを通過しなければなりません。

見えないものを見る力を受け入れるということです。

大切なものは目に見えない…私の大好きな星の王子さまというものがたりでも有名な言葉です。

大切なものって、、、「愛」じゃないですか?

私はそう思っています。

じゃあ、愛って何?

私は、無条件ということだと思います。

無条件に与えられるもの、それが愛。

でも、無条件に愛することと、理不尽に攻撃することって似ているなーって、ずっと感じてもいます。

地雷は、無条件にばら撒かれます、とっても理不尽ですよね…。

そう考えるとね、ほら、見えてきませんか?

足元よーく見てみてください…。

地雷という形になった愛が、いーっぱい、転がってません???

見えた人は思うはずです、

踏まないように生きていくには、動かないでいるしかない…。

もしくは、もう踏んじゃってる人もいるかもしれません。

そんな人は絶望感に苦しむことになってしまいますね。

じゃあ、どうすればいいのでしょうか?

向き合いましょう…死ぬ気で向き合いましょう…私はやりましたよ、死ぬ気で向き合いました…。

そしたらね、やっぱりちょっと死にました。

「あ、死んじゃった…私、死んだ?死んだよね?うん、死んでる死んでる…。」

……って、ちょっと思えたんです。

だからなんとなくわかるのです、直太朗さんの「いっそ、小さく死ねばいい。」って言葉が…。

そしたらね、ちょっと楽になりますよ。

これは、私がやった方法ですが、できる人もいるかもしれないのでお伝えしますね。

私がやってる、小さく死ぬ方法。

地雷を踏んじゃったことに気づいて、身動きができずに苦しんでいる人がいるとします。

私は先ほど、「地雷という形になった愛」という表現をしました。

簡単に言うと、愛に戻せばいいだけです。

地雷のままだと、逃げると爆発するでしょ?

だから安心して逃げられるようにすればいい。

変化させるのです。

地雷という形を分子レベルまで分解して愛に組み替えるイメージをします。

その変化に必要なエネルギーというのが、「死ぬ気」

“氣”

です…。

時間はかかります。

でも、やるんです!!!

そしたら、フッと変化する瞬間がわかります。

その時に、足を離す…。

ほらね、、、楽に死ねますよ。

正直、勇気も入りますよ。

泣いちゃうくらい怖いですよ。

だけど泣いてもいい、動けない方がよっぽど怖いです。

だから、自分と向き合う習慣が必要なんです。

繰り返しになりますが、自分を信じるためには、孤独と向き合う強さが必要です。

自分と向き合うということは、自分自身の成長を問うということでもあります。

この習慣がついていることはいざという時強いですよ!!!

「いざという時」

それは、自分の成長を確認できる時でもあるのです。

言い換えると、自分の価値を確認できる時なのです。

それを教えてくれるのは、誰でしょうか?

自分でしょうか?

私はこう思っています。

自分の価値を教えてくれるのは、自分以外の人である。

目の前の人が自分の価値を教えてくれる。

目の前の人を大切にしましょう!

地雷を踏んでしまっても動ける自分になりましょう!

そんな自分に成長させましょう!
成長とは、喜びです。

喜びとは、幸福です!
みんな、一緒に幸せになろうよ!!!!!

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