ロスの感情
理恵でっす。
私は一昨日、心理学のワークショップに参加して、ゲシュタルト療法について改めて学んできました。
ゲシュタルト療法とは、フレデリック・S・パールズという人が提唱した心理療法です。
ゲシュタルトの考え方は、私はまだ全てを理解できているとは思っていなくて、言葉で表現することがなかなか難しいです。
ゲシュタルトはドイツ語で、形とか全体という意味を表す言葉で、ゲシュタルト療法は「今、ここ」に意識を集中するセラピーです。
人は、年をとるごとに思い出に浸って生きていくものだと思います。
ゲシュタルトの「今、ここ」という考え方をうのみにすると、そんな人間の意識を否定しているかのように感じます。
でも、私は人間が思い出を乗り越えて生きていくためには、ゲシュタルトの考え方が必要だという気がします。
パールズは、人間が自分で作ったものは基本「0(ゼロ)」であると言います。
だとすると、思い出というのはその人のものではあるのだけれど、それは全て他者から与えられたもののみでできているということになります。
それを引き寄せたのは、本人の欲求であり、その欲求に従って本人が自ら行動したからに他なりませんが、そのことを自覚して生きていかなければ、人は自ら生きているとは思えずに、他者によって生かされているということになります。
しかし、それは「自分自身」によって生かされているという考え方をすることで、ゲシュタルトのいう、神経症の4つの要因の一つの「反転(リトロフレクション)」という現象が心の中で起こっているのだとわかりました。
ゲシュタルト療法での神経症とは、外界と関わるために必要な変化が見られなくなる状態のことで、その要因が4つあります。
「取り入れ」「投射」「融合」「反転」の4つです。
これらは、「自分」というものと「他人」というものがごっちゃになってしまって、現実がわからなくなってしまうというイメージだと私は思っています。
自らが作り出した「他人」を、褒めたり責めたりすることで生きる、ということが錯覚であることを気づかせる療法がゲシュタルト療法だと私は理解しています。
そういう考え方をしているうちは、人間は未完成なのであり、分離している自分を統合させようとする働きが人間には備わっていて、そこに素直に従って生きていけば、本来の自分に戻ることができる。
バラバラだった破片が、全体としてまとまっていくのだと思います。
私は私。
あなたはあなた。
私がこの世に生きているのは、あなたの期待に答えるためではない。
また、あなたがこの世に生きているのは、私の期待に応えるためではない。
私は私。
あなたはあなた。
(私たちが出会えたら、それは素晴らしいこと。
もし出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。)
「ゲシュタルトの祈り」
どんな人でも、いつかは死んでしまいます。
そして、毒は熟成されると消えていくものです。
潜在的に力のあるものは、その多くが未熟なのです。
適切な環境で、時間をかけて成長させたものは熟成された深い味になります。
死ぬということは、魂の進化に身体が追い付かなくなることだ…。
だから、私は進化に耐え得る健やかな身体を保つために、日々努めようとする。
私は、先日身近な人を亡くしました。
私たち日本人は、人が亡くなると「おくやみ申し上げます。」と声をかけます。
人の死を目の当たりにして、「私は何もできなかった。」と、「今、ここ」で気づきました。
人の死は突然訪れるものだ、ほんとに…。