宇宙の法則
理恵でっす。
前回のゲシュタルト療法に引き続き、心理学ワークショップに参加してきました。
今回は論理療法(Rational Therapy)を学んできました。
これは、アルバート・エリスという心理学者が提唱した療法で、現在は合理情動行動療法(Rational Emotive Behavior Therapy)などと名称が変わっているのですが、日本では論理療法という名称が一般的に有名です。
私たちは、認知・感情・行動という心と体のはたらきによって日々生きています。
そんな中で、人間関係に悩み、生きづらくなるということが多々あります。
それは“~すべき”や“ねばならない”という独断的で非論理的な考え方をしているからであり、そのような縛りを解いて、現実的で論理的に考え方を変えていく、というのがこの療法です。
論理的という表現は、どんなイメージが浮かぶでしょうか?
現実的で合理的で建設的ということでしょうか?
それは感情を無視したような、頭の固いイメージでしょうか?
私はその逆であると思います。
人は物事に対して、それぞれが様々な解釈をするものです。
まずそれを受け入れられる、柔軟な頭がなければ論理的な思考はできません。
その上で、その解釈が現実的であるか否かを明確にしていきます。
例えば、夫が妻の気持ちを分かってくれないので妻が悩んでいるという場合があるとします。
なぜ妻がそう思ったのか…。
A:
妻が夫に「話をしたい。」と言ったが「今お前と話すことはない。」と言われた。(出来事)
B:
妻はそこで「夫は私を嫌っている、拒絶している。」と思った。(解釈)
C:
妻は絶望的になり、悲しみや悔しさの感情でいっぱいになった。(感情)
これは、論理療法におけるABC理論という考え方で、A:出来事 と C:感情 の間には、B:解釈 が入るために、不安や怒りなどの受け入れにくい反応が起こってしまうというものです。
それは、“~すべき”や“ねばならない”という不合理的信念(イラショナルビリーフ)をその人が持っているからであり、論理療法ではこの思考を事実に基づいた合理的信念(ラショナルビリーフ)に変える訓練をしていきます。
妻が「夫は私を嫌っている、拒絶している。」と解釈する心理には、妻が「夫は妻である私と話をするべきである。」という思い込みがあることによって起こります。
「話をしないということは、私のことが嫌いだからにちがいない。」
「私が嫌いだから拒絶するのにちがいない。」
「夫は妻を拒絶してはならない、受け入れるべきだ。」
「夫は妻を愛さなければならない。」
このような思い込みがエスカレートすると、マイナスの感情を引き起こし、情緒不安定になっていきます。
論理療法では、こういう解釈には科学的な根拠がないという考え方をします。
事実だけを見るのです。
この例で見れば、妻が「話をしたい。」と言った。
夫が「今お前と話すことはない。」と言った。
事実はこれだけです。
だから、夫が妻の気持ちをわかってくれないという証拠はどこにもなく、この時点では夫がわかってくれる可能性はあるかもしれないし、ないかもしれない。
話し合って考えを擦り合わせる必要はあるが、「今は話すことはない。」と言われた事実があるので、今話し合うのは難しいかもしれない。
そう考えられれば、「相手がいつでも自分に従うわけがない。」という事実に気が付きます。
「今」の時点で、できることとできないことを科学的に明確にするのが論理療法だと私は理解しています。
あくまでも、「今」という概念ありきの考え方です。
だから、妻が例のような思い込みをしてしまう根拠がないといえば、そうとも言えなくて、妻のそれまでの成育歴や人間関係を紐解いていけば、なぜそのような解釈をしてしまうのかが根拠としてみえてくることもあります。
しかし、それはまた精神分析という別の考え方になるので、この論理療法ではそういう考え方はしません。
そのような精神分析の考え方を全て省いてしまい、過去よりも現在に目を向けるというやり方です。
私は、エリスの考え方はとても素晴らしく、建設的に物事を考えて目標と目的に向かって努力するためには必要だと思っています。
しかし、だからといって過去をなかったことにはできません。
精神分析的な考え方をするのもしないのも、人によって自由だと思います。
しかしながら、私は精神分析も行動療法もどちらも大切だと考えます。
人に歴史ありという言葉もあるように、その歴史にはその時々の人々の思考や時代背景があります。
そこに想いを馳せることは、人間の情緒を豊かにし、よりよい人間関係を築いていくための素材づくりであり、資料づくりであると思います。
人間社会に生きていれば、タブーはつきものですし、簡単に白黒つけられないことばかりだと思います。
確かに、行動しなければなにも始まらないことは事実です。
でも、それをやることによって、起こるリスクを知っていてやるか、知らないでやるのかでは、その結果が全然違います。
「私はこれをするのだ。」という使命を感じたのなら、それにともなうリスクを知ろうとすることは大人としては当然のことだと思います。
でも、そのリスクもやってみなければ最初のうちは何もわかりません。
だから、感性という貯金を日ごろから積み立てておくことが大切だと感じます。
それがあれば、少しは安心ですし、自ずと挑戦する勇気も湧いてくるものだと思います。
その感性の貯金を増やすということの一つとして、精神分析の考え方があるのだと思っています。
ただ、誰もかれもがみんな精神分析ばかりをしていては、人間は進化していかないとも思います。
私が精神分析をするのは、それが私に与えられた役割だと思うからです。
ただ、カウンセリングの手法としては、効果の割に時間がかかりすぎるということで、アルバートエリスは精神分析を完全に否定しています。
現在のカウンセリングというのは、古典的な精神分析が進化して、現代的な行動療法に移り変わっているというイメージを私は持っています。
でも、どの時代にもきっと「本質的な守るべきもの」というのがあって、それに従って進んで行けば、ぐるっと一周まわって元の位置まで帰ってくるのだと思います。
地球は丸いんだし…。
世界を一周したら、その次は別のルートをまわって、また帰ってくるのを繰り返す…。
進化の歴史とはそういうもののような気がします。
この地球上で人間が形を持った生物である限りは、本能的に目先の快楽を求めるというのはしかたがない事実です。
そのような欲求をどんどん増やすことによって人間は進化してきたのだと思います。
ただ、そろそろ限界を超えてしまう時期にきていると私は感じています。
そのために欲求をコントロールできない現代人が増え続けているのです。
だから、それを受け入れて、より進化していくために、しっかりと現実に目を向け、自分の内面に向き合い、身体を使って行動していく。
素直にそれを繰り返していけば、シンプルで美しい形になれるのだと私は信じています。
そして、人間はその美しい本来の姿に戻っていくのだと思います。
これはエリスも考えた『宇宙の法則』にあてはまることなのだと思います。
心理学という学問は、深掘りすれば果てしないものですが、見方を変えれば非常にシンプルでわかりやすいものかもしれません。
たぶん、宇宙という未知の空間も、そんな身近なもののような気がします…。