「守ること」と、「狡さ」について

今月も夢KANさんで、

『心のストレッチ箱庭で遊ぼうょ』

ご参加いただいてありがとうございました!

 夢KANさんもいっしょに平和で穏やかな箱庭を作りましたょ。

 一見、のどかな風景も、一つ一つクローズアップしていくと、普段は考えない現実が浮き出てくることが…… 

 運命を受け入れる牛さんのうしろ姿に……

 小人の住む森の中に埋まっているものに…… 

 光と闇は表裏一体。

「 何かを守るためには、その裏側を人知れず背負っている誰かの存在があるよね」というお話しにもなりました。

「守ること」と「狡さ」は、一見すると反対のものに見えますが、実はかなり近い関係にあると思います。 

 守るとは、何かを危険や損失から遠ざけることです。たとえば、自分を守る、家族を守る、仲間を守る、秘密を守る、ルールを守る、などがあります。

 守ることは、必ずしも正しいとは限らず、「何を守るのか」によって、その行為の意味は変わります。

 たとえば、友人の失敗を隠して「友人を守る」ことは、友情としては理解できても、別の人に損害を与えるなら、単純に「正しい」とは言えません。つまり、守ることそのものではなく、何のために、何を、誰から守るのかが重要だと思います。

 そして、守るための近道に「狡さ」が隠されていることがあると思います。

 狡い行為には、正面からやると失うものがあるから、別の方法で回避するという側面があります。

 たとえば、「本当のことを言えば自分が怒られるから、嘘をついて自分を守る」ことは狡さですが、同時に「自己防衛」でもあります。

 つまり、狡さにはしばしば、守りたいもの → 危険 → 正攻法では守れない → 抜け道を使う、という構造があります。

 その意味では、狡さは単なる悪意ではなく、弱さや恐怖から生まれることもあるわけです。

 ただし、「守る」が狡さの言い訳にもなるところが重要だと思います。「あなたのためにやった」 「みんなを守るためだった」 「仕方なかった」という言葉は、本当にそうかもしれません。しかし同時に、自分の利益や、責任から逃げるための言い訳としても使えてしまいます。

 たとえば、「仲間を守るために嘘をついた」という行為を考えるとき、本当に仲間を守ったのか?自分が嫌われるのを避けただけではないか?誰か別の人に責任を押しつけていないか?を、区別する必要があります。また、弱い立場の人をかばうために規則に反することで、他者とルールとの間に緊張が生じることもあります。

 では、守ることと、狡さの境界はどこなのかを考えたとき、守ろうとしているものが、自分なのか、相手なのか、それとも、自分や相手以外の他者なのか、を考えると、狡いかどうかは、単にルールを破ったかどうかだけでは決まりません。

 むしろ、自分を守るために、他人に不当に負担を押しつけていないか、という観点が、一つの重要な基準になります。

 結論、守ることは、ときに狡さを必要とすることがあると私は思います。

 でも、これは良い悪いでなく、「だから面白い」こと、として捉えたいです。

 現実には完全に正直で公平な行動だけでは、大切なものを守れない場合があるということです。

 子どもを危険から守るために嘘をつく、 迫害されている人を守るために居場所を隠す、誰かの秘密を守るために質問をかわす、こうした場合、「嘘をつかない」という原則と「人を守る」という原則が衝突します。

 だから「狡さ」は、いつでも単純な悪ではありません。むしろ、「正しさ」と「守ること」が衝突したときに生じる、人間の複雑な選択として見ることができると思います。

 要するに、狡さとは「守るための抜け道」になり得る一方で、「守る」という言葉を隠れ蓑にして自分だけを守る行為にもなり得る。

 この二面性が、「守ること」と「狡さ」の関係の核心だと思います。

  次回のお知らせ

 第22回目『心のストレッチ箱庭で遊ぼうょ』

 10/22㈭ 19:00〜21:00 

 参加料 1,500円(ドリンク付き) 

 場所 夢KANさん 

 ご参加お待ちしております


 タロットカードで楽しく遊んで学ぶ会『タロットで遊ぼうょ』も好評開催中です!

 “箱庭” と “タロット”の二本立てで!遊び心いっぱいの明るい未来づくりをみなさまと共に楽しんでいきたいと思っております!

 『人生をリーディング!タロットで遊ぼうよぅ』 

 10/12㈪ 19:00〜21:00 

参加費 :1,500円(ドリンク付き)

 場所 :夢KAN 

 こちらもご参加お待ちしております!

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